聞いて欲しい独り言

こんな人も生きてますよ 離婚、パート・アルバイトの掛け持ち、子どもの独立、そして息子家族との同居、親のこと~

一律10万円給付!所得制限なし!

こうこなくっちゃ

最初からやってよ~ 一律給付

でも、まさか、26万円だとかを返還する国会議員にまで配らないよね

当然、収入の減る心配のない公務員と年金生活者は除くんですよね?!

スピードが肝心だから、あとは所得課税でさっさとやっちゃって~

紅葉狩り

母と連れ立って、紅葉鮮やかな甲府・昇仙峡へ行ってきました

ジパング会員である母が、電車の旅をしたいというのです

日帰りでしたが、天候にも恵まれ、今は盛りの紅葉を楽しむことができました

 

私の母は、83歳

父が他界してから14年

田舎で一人暮らしをしています

 

ついこの間まで、ご近所の不良未亡人仲間(本人曰く)と映画をはしごしたり、サークル活動に熱心に取り組んだりしていました

私が年に3〜4回帰省した時も、まだこんなに家電(いえでん)使ってるんだと感心するほど身内や友人から電話がかかってきていました

一緒に出かけて帰ってくると、玄関前に、野菜や花が置かれていたり、私が来ているのを知って遠慮してお帰りになるお友だちもいて、逆に申し訳なく思ったものです

離れて暮らす母を心配して電話していても、誰か来たからもう切るね、と言われてしまうくらいでした

 

それが‥‥

 

この夏、長年活用してきた原付バイクを処分してから、少し様子が違ってきました

母は山の上にある畑までバイクで通って、野菜作りを楽しんでいましたが、数年前には転んで手首を折る大怪我をしてしまいました

バイクについて、私たち娘は、幾度となく処分をうながしてきました

今回、懇意の自転車屋さんが廃業するのを機会に、母自身が身体の衰えを感じて決意したのです

身体が動くうちに、バイクのない生活に慣れなくてはいけない、と頭ではわかっていたのでしょう

便数は少ないとは言え、家の前がバス停ですし、出かけようと思えば、母のバイクより確かとも言えます (残念ながら畑までのバス便はありません)

 

ただ、歳をとるのは、私の母だけではありません

2年前にお隣の仲良し未亡人が亡くなり、遊びに来てくださっていたお友達の何人かも、自転車が難しくなったり施設に入ってしまったりしたようです

母とは7歳違いの叔母がやはりバイクでよく遊びに来てくれているようですが、生活範囲は明らかに縮小してしまいました

気の弱くなった母は、私たちが帰省するのを待ち望んでいます

 

JRのジパング会員割引も、今年は使う機会なく期限が切れそうだと、気に病んでいました

元は取れなかったみたいですが、遠出ができる、という気持ちを維持するための会員証だったとすれば、十分価値はあったかなと思います

 

私も、できる限り、母の望みを叶えてあげたいと思い、今回、甲府への電車の旅となりました

荷物は最小限にしようね、と約束したのに、母のリュックからは、ミカンやお菓子が次々と出てきました

富士山が見える度に、ほら見て、と私の袖を引っ張ります

母のはしゃいだ顔を見ているのは、とても幸せでした

 

あとどれくらい母との時間を持てるものかと考えると、これからは、わがままも毎度の昔話も喜んで聴いてあげたいですねf:id:sazankakun:20191123092430j:image

 

 

 

自己肯定感が大事だというけれど~Vol.2

前回の続きです 

 

自己肯定感と積極性の関係、4つのパターン

1、自分は一人前の人間だし、がんばって、うまくやっている

2、自分は人並みの人間だけど、周囲のせいで思ったようにいかない

3、自分は出来は悪いが、それなりに一生懸命やっている

4、自分は出来損ないだし、何をやってもうまくいかない 

 

このうち、自己肯定感が最も低いのは4のケースですが、問題の大きいのは2のケースではないでしょうか?ということを書きます

 

生きてゆくうえで、自分と他者との関係を築くために自己肯定感は大切です

自己肯定感が正しく認知されていないと、周囲の人との好ましい関係を保つことが難しくなってしまいます

 

たとえば、「私なんかスタイルも悪いし性格も良くないから男子にモテるはずはない」と思っている女子がいたとします

彼女は「こんな私に言い寄ってくる男子は下心があるにちがいない」または「私を愛してるなんて言うのは、ろくでもない男だ」と考えるようになります

もしやということで、お付き合いすることになったとしても、自分に自信のない彼女は相手のことを信用することができません

浮気をしているんじゃないかと疑って彼を束縛してみたり、自分から甘えたり誘ったりすることができなかったりと、相手との距離の取り方がうまくできません

 

あれ?心当たりがありますか?

はい、あります

 

世間には、いろんなキャラクターが存在します

 

ちびまる子ちゃん』を思い浮かべればお分かりいただけるのではないでしょうか

登場人物を、最初に挙げた4つのパターンに分類してみます

 

花輪クン、丸尾君、はまじ、みぎわさん 小杉、山田、〜ケース1

前田さん、〜ケース2

まるこ、たまちゃん、野口さん、ブー太郎、藤木、長山君、〜ケース3

永沢、山根、〜ケース4

 

大雑把に、こんなところでしょうか

子どもにも大人にも支持されるテレビ漫画のキャラクターですから、それぞれに救いようのある描かれ方をしています

まして、子どもですから、基本的には天真爛漫(自己肯定感の素みたいなもの?)

だけど、天真爛漫だけでないところが、この作品の味であり、魅力になっているのだと思います

いじけたり、見栄を張ったり、欲張ったり、うらやんだり

 

つまり、全員が自己肯定感満載であったなら、自己肯定感なんていう概念が必要でない、虫とか鳥の世界と同じことになるのじゃないでしょうか

うちの庭で繁殖したカメムシや、ごみ集積所に漁りに来るカラスに自己肯定感があるとは思えません

何も考えずに、生命の本能で生きていくということになります

 

自己肯定感が高ければ高いほどいいのではありません

亡くなられたさくら先生も、いろんな人間が悩み、問題にぶち当たりながら答えを出していこうとする過程に意味がある、とおっしゃっていると思います

 

さて、問題にぶち当たった時に、それをすべて周囲のせいにする人間こそが、大問題なのです

我が身の評価が高い人は、失敗の原因・不都合を外部のせいにする傾向があります

自分が通常の注意を払ってさえいれば避けられた被害などについて、他人を責めたりするのです

成果はすべて自分の手柄で、失敗は他の人の責任だと思っています

こういう人の自己肯定感は、一体どこで身についたのでしょう

そうとでも思わなければアイデンティティを見失ってしまうような攻撃を受けた反動なのでしょうか 

 

このメンタリティー形成について、知りたいと思います

 

そして、日本の若者に自己肯定感が足りないというのには、大きな問題を感じます

アイデンティティをしっかり持つこと

自己の背景にあるものを知っておくことは、前回の記事で書いたように大切だと思います

 

 

自己肯定感が大事だというけれど

日本の若者の自己肯定感が外国に比べて、とても低いという記事を、ネットで読みました

欧米・アジアその他の地域の若者では60%以上、多い国では80%を超えるということです

お隣、韓国でも70%の若者が、自分の能力や存在意義について肯定的に捉えているそうです

しかし、日本の若者では40%と、他と比べて際立って低いということでした

 

これはどういうことでしょうか

文化の特質は少なからずあると思います

日本語では、一人称の主語を省略することが多いですよね、一番最後に、コソッとつけたり

若者というより、日本人のこのような文化的特質と深い関係があると思われます

儒教の国、中国でも、若者は日本より自己肯定感高いのですが、中国語は英語と同じ "I think〜" の文法だと聞いたことがあります

 

それにしても、これだけ情報の量も速度も飛躍的に進歩して世の中がグローバル化しているのだから、もう少し世界平均に近づいても良さそうですよね

 

海外での著名人の政治的発言や社会貢献の話題に接すると、日本人は、自己主張・自己表現が少ないな、と感じます

主張・表現するまえに、自分の考えを持っているのかと訝ってしまいます

マスコミの取り上げた話題に乗じて騒いだり、みんながやっているからと、ハロウィンで羽目を外したりするところから考えると、決して大人しいというわけではなさそうです

 

飛躍しすぎだと思われるかもしれませんが、

私が考えるには、第二次世界対戦の敗戦で受けたダメージが、日本人を卑屈にしているのではないでしょうか

国の繁栄のために大変重要な「教育」の場面で、国・地域・家族・個人という「生存」の肯定的な把握を怠ってきたのではないかと思うのです

"怠って"というと語弊がありますね

自戒の念から、帝国主義的な思想を遠ざけるあまり、国としての生存基盤に踏み込めないできた

戦争の責任と結果のあまりの大きさに、自己の存在の確立に抵抗を覚えている

言い換えれば、自分らしさ・日本らしさから逃げている

それはまた、戦争の経験を後世に伝え、未来を考える機会を奪っていると言えるのかもしれません

 

時間が解決するだろうと思ってきた苦い経験が、二回りの世代交代を経て、自信のない若者を生み出してしまっていると思えてなりません

深く知ることなく年齢を重ねていく子ども(私もその一人でした)は、溢れる情報の中から、自分に都合の良いものだけを取り入れて、消化不良になっているような気がします

 

 本来、農耕民族だった日本民族帰属意識が薄れたら、どうなるか

一人では狩りもできず、マスコミが右向けと言えば右を向き、みんながやっているからと受験勉強をする

しかし、政治はどうせ頼りにならないからと、投票もしない

だけど、ラグビー日本代表・桜JAPANが活躍すればにわかファンはあふれ、ハロウィンの渋谷は無礼講だと勘違いして大騒ぎする

若い力は、帰属意識の発露と集団心理の熱狂を求めているように思えます

 

自分はどこのだれで、何を考え、どう行動するのか

それは、誰かの役に立つのか

そういうことを考えられるようになって初めて、自己肯定感を持つことができるのではないでしょうか

 

その他大勢の中に紛れて、子供じみた承認欲求ばかり肥大した若者を見るにつけ、戦後の教育について考えさせられます

 

と、ここまで考えて、最初に書きたいと思っていたことと、全く違う話をしていると気づきました

 

自己肯定感と積極性の関係、4つのパターン

1、自分は一人前の人間だし、がんばって、うまくやっている

2、自分は人並みの人間だけど、周囲のせいで思ったようにいかない

3、自分は出来は悪いが、それなりに一生懸命やっている

4、自分は出来損ないだし、何をやってもうまくいかない 

 

このうち、自己肯定感が最も低いのは4のケースですが、問題の大きいのは2のケースではないでしょうか?ということを言いたかったんでした

 

長くなりましたので、また次回

 

 

災害時避難所のホームレス受け入れについて

前回・前々回の台風で、行政の避難所運営において取り上げられた、ホームレスの受け入れ問題について、私の考え方をまとめてみたいと思います

 

地震のように突然避難せざるを得ない場合と、台風のようにある程度事前に避難の必要性が取りざたされている場合とで、分けて考える必要があると思います

 

前者の場合は、すでに被害に合っている人が助けを求めて避難所に来るのだと思われます

ですから、ホームレスでも観光客でも地域住人と同様に受け入れることになるでしょう

被災したわけでもないのに、食事だけを目当てに来る人がいたとしたら、そこで行政や地域住民との繋がりを、改めて感じてほしいと思います

 

問題は、後者のケースです

どんな事情があるにしろ、全ての社会的責任を放棄して生きることを選択した人が、避難所が開設されたからと言って、いの一番に陣取って食事を要求するようなことも想定されるのです

うがった見方をすると思う方もいるかもしれませんが、私には、こんな経験があります

 

私は以前、お寺で働いていました

勤めていた寺には、奥様曰く「おもらいさん」が数人、不定期に、繰り返し訪れてきました

身なりが特に変わっているわけではなく、人によっては山門手前でリュックを植え込みの中に隠してきたり、離れたところに自転車を停めてきたりしていました

そして、毎回自らをホームレスと名乗り、「仕事が見つからないので、食べるものがない」「〇〇まで行く電車賃がない」「少しでいいのでお金を恵んでほしい」と泣き入りそうな声で物乞いをします

警察からは、絶対に施しをしないようにと言われていました(警察に来れば事情聴取の上、なにがしかのお金を貸すことになっているそうです)が、居座られても困るので、一律200円を差し上げるようにしていました

頭を深く下げてゆく人もいましたが、中には、「ちぇっ」と舌を鳴らす人もいました

最も頻繁に来寺していた若い男性は、いつも200円を押し抱いて辞した後、寺内の慰霊塔や六地蔵を回り時間をかけて手を合わせ、お賽銭を拾っていきました

ある時、その彼が、近くの交差点でマウンテンバイクにまたがってスマホを操作しているのを見かけました

ナイキのスニーカーにサコッシュと、スタイリッシュな姿に驚いてしまいました

世の中には、施しを当てにして生きている人もいるということです

 

行政の限りある労力(資力はともかく)を、そちらに取られてしまうことに、何ともやるせなさを覚えます

 

そこで、私が考える解決策は、「事前の自主避難時の食事は、自前もしくは有料にする」ことです

これだけで、事前避難される方は、かなりしぼられるのではないでしょうか

一人でいるのは心細いと感じる方は当然いらっしゃるでしょうし、心細いのが理由ならば、自分の食事くらいは用意できると思います

事前避難をするにあたっては、大事なお金や身分証を身につけていくはずです

ホームレスの方は、一人でいるのはむしろ得意なので、食事も出ないのに避難所に来るとは考えにくいです

橋の下にお住いの方は、当然、早めに高いところに移動していただきたい

ネットカフェにお住まいの方も、自分のやり方で命を護って欲しい

どの命も尊さに優劣はありません

 

命が危険にさらされる場合、または自宅が危険な状態である場合には、どんな人であろうと避難所で受け入れるべきです

 自分の命を護るために避難所に行って、隣の人の匂いが嫌だとか言っている場合ではありません

 

訪問リハビリの仕事をしている人に聞いた話では、患者さんは当然、身体の不自由な方なので、汚れた自宅にお住まいの方が多いそうです

患者さんの体に直接触れてリハビリをするのは仕事だから一生懸命やるけれど、本当は靴を脱ぐのもためらってしまうことがある、ということでした

 

訪問リハビリを必要とするような方は、なるべく早く避難をしてください

行政は、こういう方々こそ、食事有料で事前受け入れをしなくてはいけません

一日でも早く、身体が動くようになって、身の回りのことが自分でできるようになることを祈ります

 

私が電車に乗ったって、タバコの匂いが自分の服に移らないか気になってしまうような人も、たまにいますよね

 

いろんな人が、この社会で生きています

 

人に何かしてもらうことより、人に迷惑をかけない、できれば人の役に立つことをする

そういう人間になりたいと思います

 

 

 

秋だから

今週のお題「秋の空気」

 

なんといっても一番は、便座の冷たさ、

夏の間、暖房OFFにしてあった我が家の便座に、朝、最初に座るとき、おっと!

と思わず声が出そうになります

台風で停電・断水なんて地域もあるのだから、そんなことで動じているわけにはいかないのは承知しています

まだ我慢のできる程度ですから、もうしばらくは、目覚まし代わりにこのまま使用します

皆さんの地域が少しでも早く復旧することを祈りつつも、冷たいものは冷たい>_<

 

その次は、キンモクセイの香り

これはトイレの芳香剤じゃなくて、本物のほう

住宅街では、この季節、どこからかキンモクセイの芳香が漂ってきて、鼻の先がちょっと赤くなるような錯覚を覚えます

辺りを見回すと、だいたい目の届く範囲に1本はオレンジ色に輝く小花の群れを付けた木が見つかります

この花の香りは、私の中で、「秋の空気」感とシンクロします

 

もう一つ、香りでいうと、ちょっと遠慮したいほうの銀杏の実、

そう、ギンナン

以前勤めていた会社の駐車場に大きな銀杏の木があり、この季節は、足元に気を付けながら車に乗り込まないと、乗ってからエライ後悔したものです

今、孫を送迎する保育園にも、やはり銀杏の大木がありまして、園児たちがその実を見逃すはずもなく、台風の後は一段と薫り高く「秋の空気」を演出しています

食べるのは大歓迎なんですけどね

 

そして、最後に書き加えておきたい「秋の空気」は、やはり、空と雲と時の流れ

晴れ渡った高い空も、夕焼けに映える鱗雲も、月にかかる雲も、

移り変わる季節とともに、過ぎゆく年月をずしーっと、我が身に投げかけてきます

また、我が身とは何の関係もなく、もっと気の遠くなるような長いスパンの時の経過を「秋の空気」は運んできます 

 

自分ひとり、どうあがいても、どうにもならないことと

とにかくやるしかない目の前のこと

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その条件は、みんな平等かな、と思えるようになりました

 もの思う秋、です

地球には重力がある

地球上には重力があるので、人は気を抜くと、途端にだらしない方向に落ちていってしまう

 

豊満な乳房もブラなしではその形を保てないように、

明日の仕事が無ければ、飲んだくれて終電を逃しても、まあいいやと思ったり、

パートナーが出張なら、夕飯はスーパーのお惣菜で済ませたり、

電気代が親持ちなら、エアコンつけっ放しでも気にならなかったり、

健康診断が終わったら、暴飲暴食したり、

エレベーターに自分ひとりだったら、鼻糞ほじくったり

 

というように、人間は何かしらのストレスを与えられていないと、神経も規範意識も体型もたるんでしまうのだと思う

 

たまには、たるませることも必要なのだが、その、たまに具合が難しい!

 

無人島で一人だったら、人の目は気にならないけど、生きていくために今よりずっと神経を使うだろう

自分一人分の食料を得、自然環境から身の安全を図るには、鏡を見る必要もないが、お腹をたるませるゆとりもないだろう

 

この文明社会で生きてゆく限り、人の目・世間の目を全く気にしないわけにはいかない

というより、自堕落な自分をこの社会に何とか繋ぎ止めているのは、人としての矜持とかいうきれいごとではなくって、まさに、世間体なんじゃないだろうか

 

休日の真っ昼間、宅配便の応対にノーブラで出てしまったことに気付いたら、私だって猫背になってしまう

 

落ちるだけ落ちて、たとえ世捨て人とかホームレスになったとしても、一つの社会の中で、他者と無関係には生きられない

死ぬまでは腹が減るし、石を投げられれば痛い

また別のストレスを感じながら、生きていくことになるだろう

 

どこまで他者と折り合い、どこから自分を解放させたらいいのだろうか?

 

一方で、自分にも相手にも、ありのままの姿を受け入れようという精神論が語られることがある

どういうことだろう?

 

無条件に相手を受け入れる、とは、親が子にそそぐ無償の愛

または、罪深い人間を赦したもう神仏の業

 

人類がかくも長い間、同じようなことで悩みぬいてきたらしい歴史を感じる

 

アダムとイヴの話のように、人間は、そもそも不完全で罪深い存在である、ということを自覚することから始めたらいいのかもしれない

 

お互いの存在・立場を認め合い、讃えあい、許しあい、愛しあう

自分を認めて欲しければ、まず、相手をありのままに認める必要があることに気付く

 

これだ!

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そうだ、これは、重力の話だった

 

落ちてきたリンゴをアダムとイヴが二人して食べたときから、ニュートンに見られていたってことでいかがでしょう?

 

あーん、

イラストのレイアウト編集のやり方がわかんなーい‼️