聞いて欲しい独り言

こんな人も生きてますよ 離婚、パート・アルバイトの掛け持ち、子どもの独立、そして息子家族との同居、親のこと~

贈収賄とオモテナシ

東電のだめだめ話の次は、関電ですか

高浜町での原発を巡る収賄事件の報道に接して、フウウーッとため息をついてしまいました

関電側の弁明がまた原発事業に何ともありがちな、事なかれ主義的なものでしたね

地元有力者との関係悪化を憂慮したとか

 

そこで、きょうは、賄賂・袖の下またはオモテナシ等、ビジネスやコミュニケーションを円滑に行うために役立つものついて、考えてみたいと思います

 

結論から言うと、

人間は自分の欲望を満たすために、相手を利用する生き物だということです

 

その欲望が正当でないか、制度・条件が公正でない場合、不正が行われます

そのとき、当事者の間だけで納得するためのツールが賄賂ですね

それで何事もなかったように、表面上の体裁が整うというものです

 

ここで注目したいのは、正当でない欲望を通そうとする人と、正当でない制度・条件を設定する人は、どちらも権力を持っている側だということです

つまり、権力のある人が、公平に、正当な行いをすれば、賄賂など必要なくなるのです

ということは、つまり、贈収賄はなくならないということでもあります

 

人間は弱い生き物です

 

たとえば、悪政から逃れるために国境を越えようとする人々がいます

いわゆる難民です

力(権力・経済力・コネクション)のない人は、違法行為をあえてするしか手立てはありません

でも、権力者に賄賂を差し出すことで融通が利くとなれば、喜ぶのは権力者です

彼には、メリットしかないのですから

 

江戸時代、関所を抜ける通行手形や取引手形を発行したのは檀家制度を強いた寺社奉行傘下のだそうです

戸籍を管理し、住民の身分を保証する一筆のために、金品を要求したといいます

なるほど、宗教家がきらびやかな荘厳を好み、僧兵を囲って、偉そうにしていたわけです

神仏の、本当に価値のある教えを世の中の人々に伝えるためなら、身一つで足りると思うのですが

 

無理を通すために、相手の喜ぶことをしてあげるのは、重要です

制度・条件が公正ならば、極めて真っ当な交渉テクニックです

だから、この場合、賄賂とは言いません

 ファーストフード店のスマイル・フリーや、パパへのゴロニャンおねだりは、もはや常套手段ですよね

ついその気にさせる、優れた技量です 

 

これは、先日のブログで触れたアドラー心理学に基づく育児法にも通じるところがあります

要するに、Give and Take,

自分も譲歩し、相手の顔も立てることによって、課題をクリアすることができます

 

さて、

オ・モ・テ・ナ・シ、オモテナシ~はどうでしょう?

 

「おもてなし」は、日本人の美徳だと誰もが思っているようです

ラグビー・ワールドカップで来日した選手団や観光客と「おもてなし」をめぐる美談に、日本人自身が酔いしれるのを、なんか気持ち悪いと思うのは私だけでしょうか

 

YouTube

来日外国人が驚いた!日本人のここがスゴイ!

なんて動画が何万回も再生されているのを目にすると、どこまで自分好きやの、と突っ込みたくなってしまいます

 

ひねくれ者です

 

 無償なら、わかります

個人と個人の個人的な付き合いなら、素直に美徳だと思います

でも、旅館の女将や従業員が宿泊客に対して行うもてなしは、営業の一つでしょう

お客が喜び評判があがって事業が繁盛するのは、ビジネスの成功であって、それはそれでとても素晴らしいと思います

しかし、人間としての美徳、人徳とは違うと思うのです

 

もちろん、人徳のある人が、ビジネスや政治の世界でも成功してくれるに越したことはありませんが

 それならば、ほら、賄賂は必要なくなるはずだったでしょう

 

もう一度言います

人間は自分の欲望を満たすために、相手を利用する生き物なんです

 

関電の収賄を正当化しているわけではありません、 念のため

 

乳幼児の天使度・悪魔度

育児はいつの時代も試練の連続ですね

 

この春、息子家族と同居するようになり、令和の声を聴くとともに3人目の孫が生まれました

今や、4・2・0歳児👦🧑👶のバァバとして、日々奮闘しています

 

魔の2歳児とか、イヤイヤ期とかいうようですが、本当に凄い!

 

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こんなんだったっけ?

と、気持ちを揺さぶられることが、あまりにも多いので、ここで少し吐き出させていただきます

 

悪魔度 

4歳児は、眠くなると、床が抜けるんじゃないかと思うほど、地団駄踏み、どう声をかけても、かけなくても1時間以上泣き叫び続けます

「私がお隣さんだったら、虐待疑惑で間違いなく通報します」

って義娘も言うほどです

 

そうかと思えば、2歳児は、目を合わせたまま、夕ご飯のお皿をひっくり返し、カップを落とし、スプーンを投げます

 

あー、大人は試されている

と深呼吸して、その場を離れます

 

しばらくすると、4歳児が何にもなかったように足元にまとわりついてきて、

「バァバ、これなーんだ」

と、サインペンを大量のティッシュペーパーでくるんで持ってきます

もちろんキャップは外れてて、青いインクの染みが見る間に広がっていきました~

 

別のときは、ニコニコしながら、私の部屋に、封筒のようなものを持ってきて、

「バァバ、これ見て、どれでも一番好きなの、バァバにあげる!」

 わぉ! 大小様々、ダ・ン・ゴ・ム・シ!(⊙_⊙;)

さんざん振り回したらしく、全て見事に丸まっている―

 

2歳児は、冷蔵庫から手あたり次第、食品を引っ張り出します

(重い椅子も引きずって踏み台にするので、床も家具もキズだらけ)

ジャムのビンは開けられないけど、ねりからしのチューブは開けられたようで、両手に塗りたくって目をこすり、火が付いたように泣きだします

 

掃除機をかけようとすれば、4歳と2歳の兄弟が、〇〇クンがやる、△△クンがやると取り合いになって埒が明きません

ならば、1人はホーキだと思い、出してくれば、今度はこっちに2人とも飛びついて、引っ張るの、振り回すの

掃除どころか、散らかし尽くして、壁にキズ作って、ケガをする、という騒ぎになります

 

電子レンジもレコーダーもリモコンもインターホンも電灯のスイッチも、とくかく押せるものは何でも、押してみないと気が済みません

しかも、何度押しても飽きないようで、注意すればするほど繰り返す確信犯です

 

下の子が生まれて、自分にもっと目を向けさせたい、という気持ちがあるのは理解してあげたいと思いますが、本当に疲れます

 

つい先日は、ハサミ使いにはまった2歳児が、水筒のチューブをちょん切っただけでは飽き足らず、ニイニのふくらはぎを幼児用ハサミで挟んでしまいました

う~

もちろん、4歳児は、泣き叫びながら逆襲連続パンチにほっぺた掴み攻撃です

 

保育士さんたちは、2人の傷跡を見て、虐待に合っていると思っているんじゃないかしら、と義娘と心配しあっています

 

とにかく、2人とも声は大きいし、力は強いし、言い出したら聞かないし、

 

バァバ、もうくたくた

 

 天使度

それに比べたら0歳児の可愛いこと

 

泣き声はやっぱり大きくて、抱いていると耳栓が欲しくなりますが、泣き顔も見ていて飽きないくらい可愛いです

 

泣きだしそうになって、下唇をつき出して震わせるときなんて、キューンと心臓に穴が開きそうです

 

2歳児の舌足らずなおしゃべりも、キューンときます

牛乳のことを「ユーユー」といい、トラックを「アック」、救急車を「ピーポピーポウ~」というのですが、いつもクスッとしてしまいます

 

顔のパーツを全部中央に寄せて、明らかにウンチをしようとしているのに、

「△△くん、トイレ行こうか?」と声をかけると、いきみながら

「で・な・・い」と答える姿は、毎回おかしさを抑えるのが容易でありません

 

4歳児は驚くべき記憶力で、パパやママやバアバに言われた小言を、そっくりそのまま弟に説教して、大人の失笑を買います

それ、こないだ私がヒステリックに言ったまんま・・・・・ (¬_¬ )

 

ご飯の時、美味しいねって目を合わせると

「美味しくって笑っちゃうね、うふふふぁははは~」

と体をひねるように本当に笑い出したりします

コオロギの鳴き声みたいにコロコロ響く4歳児の笑い声は、脇をくすぐるような必殺技です

 

ア~、もうだめ

 

子育ての極意 

ところで、アドラー心理学に基づく育児法では、ダメって言ってはいけないそうです

相手が生後3か月以上の子どもなら、

「あなたがそれをしたら、私はこんな風に困るから、やらないでください」

お願いすればいいそうです 

 

自分の要望を聞き入れてもらいたいなら、相手が子どもでも、一人の人間として対等に意思を伝えて、お互いに譲歩しあい、折り合いどころを探るのだそうです

 

確かに、怖い顔して、金切り声を上げる人間を、子どもが交渉相手にするはずありませんよね

 

こちらだって人間ですから、なかなか理想通りにはできませんけど(;´д`)ゞ

自分の意思を通しやすくするには、まずは笑顔で接することからですかね

 

学ばせてくれます

 

そういえば、保育士さんたちは、その点、まさにプロフェッショナルです

 

保護者にも、いつもいつも笑顔で、しっかり対応してくださいます

するとこちらも、どんなに急いでいても、笑顔を作ってしまうではありませんか

 

心の中では、手も合わせています (幼稚園は仏教系)

 

そんなこんなで、日常に鮮やかな色を加えてくれる孫たちに、鍛え直されている今日このごろです

 

 

 

 

ブログ依存症への落とし穴

ひと月ほど前に始めたこのブログに、見知らぬ方からのアクセスがあって、もう思わずこぶし✊を握りしめたのは、つい先日

 

もう、うれしくてうれしくて、感謝感激で、いろんな方のブログを読ませてもらったり、もちろん自分のところのアクセス具合を、四六時中、確認したくなってしまい、

ふと気づいたら、図書館で借りた本の返却期限が近づいていました

 

いけない、いけない

 

とりあえず、読みかけの帚木蓬生『受命』だけは読み終えて、これまた考えさせられて、いろいろ調べて見たくなったりして、あー仕事、面倒くさい という状況です

 

自分がはまりかけて、実感しましたが、あっという間に時間が過ぎてしまいます

他の事が手につかなくなります

 

怖いですね、ブログ中毒!

 

私は、そこまでは行きませんでしたが、よくある歩きスマホも、これかもしれませんよね

 

ゲームだとばかり思っていました

 

近所で、2匹もワンコを連れた女性が、オシッコにも通行人にも目もくれず、ひたすらスマホいじりながら歩いているのを見かけます

 

レストランでは、向かい合ったカップルがそれぞれスマホだけを見つめながら食事をしています

 

これらがブログのせいだとしたら、と思うと😨ゾ〜とします

 

 

遠くの、見知らぬ人と繋がるのは、とても素晴らしいけれど、目の前の人をもっと見ようよ

リアルライフを大切にしようよ

睡眠不足でクルマに乗るの、やめようよ

洗濯物は朝のうちに干そうよ

図書館の返却期限は守ろうよ

 

と、自分にも言い聞かせました

 

目の前に、大きな落とし穴があいているかもしませんからね😉

 

 

そして、帚木蓬生さんの『受命』は、少し前に読んだ『受難』の前編に当たるお話だと、読み始めてから気がつきました

 

それにしても、帚木先生の守備範囲の広大さに、毎度、本当に唸っています

 

これだから、本は止められません!

 

 

 

お葬式事情あれこれ〜

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意外と知らない今時のお葬式事情について

葬儀社に勤めていますと、世の中(日本)のいろんな変化に気付きます

お葬式について、一般の方は、普段あまり考えたこともないのではないかと思いますが、人は必ず死ぬ時が来ますので、その辺りのことを、ここで少しお話したいと思います

まず、身内が亡くなって、あるいはいよいよ危ないとなった時、初めて、お葬式のしきたりやお寺とのお付き合いを考え始める方が多いのに驚きます

知人の葬儀に参列したとしても、マナーをそれほど気にせず、なんとなく黒い服を着て、手を合わせて、神妙な気持ちになって帰ってくるくらいのことではないでしょうか

そして、普段から先祖の供養を心懸けることもない人々が、いざ身内が、というと、突然いろんなことを気にして相談に見えたりするのです

ネットの情報で間に合うことばかりではない

中には、ネットで仕入れたらしい知識を、こうであるはずだ、こういうこともできると聞いた、と自己解釈した要望を主張してくる人もいます

ほとんどの場合、自分が何の信仰も持っていないのに、お葬式はお坊さんにお経をあげてもらうものだと思い込んでいるようですが、実家の宗派も知りません

個人でもできることと、専門の登録業者でなければできないことがあります

何百件・何千件と経験している葬儀社ならほとんど負担にもならないことが、一般の人には、とてつもなく大変な作業になってしまいますから、ここは専門家に任せて、親身になってもらえるように素直に相談するのがいいでしょう

はじめに分らないことは何回でも聞いて、その時の対応が悪いような葬儀社はやめた方がいいです

「しきたり」の再現と体裁

昔から代々受け継がれてきた「しきたり」は、核家族化に伴って断絶しているのですが、見かけだけは体裁を整えたいと考える人が大部分のようです

宗教儀式は体裁を整える手段となっているのです

そもそも、これだけ高齢化が進んでいるということは即ち「死」と向き合う機会が減っているということに他なりません

その昔なら、繰り返し「死」と接することで葬い方を身につけ、宗教の”ありがたみ”を実感することもあったでしょう

お葬式の小規模化

また、現代では、長寿のため、現役のうちに親の葬儀を行うケースが減り、必然的にお葬式の規模は小さくなりました

職場関係のお付き合い弔問者は減り、喪主が見栄を張る意味も無くなってきたのです

参列者の数や供花の数で、故人や一族の優劣を判断するような世の中ではなくなりました

(今では、銀座のホストかホステスかの誕生日に、店の前に並ぶ花の数の方が、話題になるらしいです)

お葬式につぎ込めるお金の減少と利便性の重視

それでなくとも費用を抑えるために、お通夜を省略したり、家族葬直葬を希望する遺族も大変増えています

生前に入院・介護費用がかさみ、余裕がないというのです

また、故人の供養というより、参列者の都合を優先させる傾向は、お葬式を形骸化させる要因と言っていいでしょう

浄土真宗以外の仏式で、葬儀の時に初七日供養も一緒に行ってしまうこと自体、本来の教えからは外れています

だからと言って、あらためて死後7日目に儀式を行わなくていけないと言われても困りますよね

お寺の檀家離れ

お葬式の件数は減り、参列者の数も減って、「しきたり」に触れる機会はどんどん少なくなっています

それにもかかわらず多くのお寺は、檀家さんをはじめ地元の人々との日頃の接点を、進んで持とうとはしないようです

葬儀を依頼するほうとしては、それぞれの教則や教義に従うつもりでお寺さんの意向を伺うのですが、お寺側は自分たちの都合に合わせることの方が優先事項で、教義などは二の次です

そのくせ、お葬式になって、やっと出番とばかりに高いところからものを言うので、ありがたみよりも「高い金とった」と言われてしまうのでしょう

そして、ネットで料金比較をして、お坊さんの派遣を注文するなんてことになるわけです

菩提寺がある人=霊園とかでなくお寺にお墓がある人は、こういうわけにはいきませんので要注意!)

価値観の変化と宗教離れ

そこには、個々の事情というよりも、社会的価値観の変化や、民族文化の変遷が大きな影響を与えていると言えるでしょう

宗教儀式は体裁のためと言いましたが、果たして体裁も必要ではなくなったら、どうなるでしょうか?

実際、喪主と参列者の間で認識が共通していれば、宗教家を招くことなく、身内だけで手を合わせたり花を手向けたりして送り出すお葬式をすることもあります 

それはそれで、心を込めたお別れが可能ですが、後で身内から嫌味を言われたとか、故人の交友関係から訝しがられたという悩みをきくこともあります

 また、好んで宗教色を排除したにもかかわらず、49日までに何々をしなくてはいけないだとか、位牌を作りたいがどんなものにしたらいいかとか、巷の概念にとらわれた考え方しかできない人もいます

悲しみの中、ぼんやりと記憶の中にある「しきたり・慣わし」と、世間体と、懐事情を総合判断して決めてゆくのが、なかなか難しいところなのです

継承されないお葬式とお墓

生前の親がすべて取り仕切っていたから、自分たちは何にも分からない、というのもよく聞く話です

一人暮らしの高齢者がこれだけ多いのですから当然と言えば当然ですよね

親の方も、離れて暮らす子どもたちにお墓の面倒まで押し付けられない、と墓終いの手はずを整える気概のある人もいます

土地や家業を承継するならまだしも、先祖代々のお墓を継ぐことに、負担以外の価値を見出すことは難しくなっていると言えるのかもしれません

どうすればいい?

こういう時代ですので、できれば、お葬式の話が現実味を持つ以前に、親・兄弟と一緒にシュミレーションしてみることをお勧めします

話しにくいとはごもっともですが、皆さん、胸のどこかで、気にしているというのも事実ではないでしょうか

 

そして、大切な人を亡くされて、どうするのがいいのか悩んでいる方に、私がよくお話しさせてもらうのは、こういうことです

 

 「故人を護って下さる仏様も神様も、ご心配されるほど心は狭くないはずです

  心が狭いのは生きている人間の証拠ですから、人間の言うことをあまり気になさる

  必要はないんじゃないですか

  ご自分のできる範囲で、誠心誠意ご供養されたなら、それに勝るものはありません

  あとは自信を持ってお過ごしになる方がよろしいと思います」

  

メンタリストDaiGoさんの名前のつづりを思わず確認しました!

このブログで、DaiGoさんのYouTubeを取り上げたことがあったので、N党の立花さんの件を知って、私も、念のために確認しました

 

大丈夫でした😅

 

やっぱりDaiGoさん、すごいです!

 

話は飛びますが、8年くらい前、携帯をスマホに変える前までは、私は新聞を購読していました

 

「読売新聞」です

 

結構すみずみまで読むほうで、中でも、読者からの様々な相談に有識者が答える「人生案内」がお気に入りでした

忙しくて全部は見られなくても、「人生案内」は、必ず目を通しました

 

当時の回答者は、評論家の樋口恵子さん、心療内科医の海原純子さん、弁護士の土肥幸代さん、作家の出久根達郎さんらで、毎日、どんな相談にどんな回答がされるのか、本当に楽しみでした

 

ちょうど自分自身にも家庭にも悩みが多かったので、似たような状況の投稿の日は、切り抜いたりして何度か読み返したものです

 

本は、図書館を利用していて買ったことなどありませんでしたが、新聞のない生活なんて考えられませんでした

 

あのころ、自分の悩みを客観的に判断し、解決策を導き出すためには、かなり重要なコンテンツだったと言えるでしょう

 

それが、スマホの料金を捻出するにあたり、新聞の契約を解除することにしたのです

 

何ということはなく、慣れの問題でした😅

 

今、こうやってネットで見ず知らずの人と、かなり低い確率で繋がって、共感・同感・交感することができてみると、不思議な感じです

 

新聞に投稿したことはなかったからわかりませんが、たとえ、自分の投稿が読売新聞の「人生案内」で取り上げられたとしても、こんなにワクワクしなかったんじゃないかと思います

 

ちなみに、今でも、YouTubeで「テレフォン人生相談」を視る、いや聴くのが好きです

今井通子さん、最高です

 

今日はカジサックさんとDaiGoさんのチャンネルを、大変楽しく拝見しましたよ!

 

 

繋がるうれしさ¯\_(ツ)_/¯

読んでもらえました!

 

ブログを始めて1ケ月を目前にして、初めてお一人の読者さんを迎えることができました

しかも、私が憧れる素敵なブロガーさん!

とっても嬉しいです😂😂

繋がるって、こんなに快感なんですね

高窓の隙間から手だけ出して合図を送っていたら、ロープに手が触れた、って感じですかね

この業界の右も左も分からずに、リアルには誰にも知らせず、日頃から心に留まったあれやこれやを書いています

長く生きてきただけに考えてきたこともたくさんあって、誰かにそれを聴いてもらいたいという思いからです

そして、いくつになっても、まだ新しい経験をすることができる感動を伝えられたらと思います

 

1ケ月経っても無反応だったら、今月で退職する縁のなさそうな同僚にだけはカミングアウトしちゃおうか、なんて弱気になっていたところでした、良かったぁ

 

 

障害者マークってどう思う?

皆さんは、「障害者マーク」の駐車場で、あれっと思ったことはありませんか?

私は、障害者用駐車場を自分専用だと思っている人や「障害者マーク」を免罪符のように使う人がいることを、受け止められないのです

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国際シンボルマーク

正式名称は「国際シンボルマーク」

公共施設やスーパーマーケットの駐車場などで目にするこのマーク、よく「障害者マーク」とか「車椅子マーク」って呼んでいますが、正式には「国際シンボルマーク」と言って全世界共通で、障害のある方が利用できる建物や場所を分かりやすく示すために用いるマークです

商標ではないので細部が変わっているものもありますし、要するに障害のある方が使いますよと周知させて、社会のグローバル化を図ろうという趣旨のものですので、ここでは「障害者マーク」と呼ぶことにします

駐車場では、ここは障害者を優先させるためのスペースですから健常者は遠慮してください、というその施設運営者の意思表示といっていいでしょう

普通その施設の出入り口に最も近いところに、他よりも十分なスペースをそれに当てています

「障害者マーク」のステッカー

車自体にも「障害者マーク」のステッカーを貼ってあるのを見かけます

これは、車の使用者が、障害者を乗せているので速度を出せなかったり駐車時に迷惑をかけるかもしれないと宣言しているということで、周囲の運転者や通行人はそれなら大目に見てあげようと思うわけです

特に最近よく見かける老人施設の送迎車などは、周囲の理解を得るために「障害者マーク」、もちろん着けてますよね

特に法的根拠や拘束力があるわけではなく、障害者手帳のように申請して交付されるのでも、ステッカーを貼ったからと言って駐車違反が見逃されるのでもありません

*警察署に申請して「駐停車禁止除外指定」を受ける制度は別にあります

70歳以上のドライバーが車につける「高齢者マーク」のように表示する努力義務もありませんから、障害のある方が乗っても付けなくたって全く構わないものです

ルールを守って運転するのは、障害がある方もない方も変わりありません

つまり、周囲から大目に見てもらいたい場合に、自ら進んで「障害者マーク」をつけるのです

実際に、Amazonでもドンキでも「Baby in Car」と一緒に数百円で売っています

障害のある方が暮らしやすい社会を実現するために

なんか選挙演説みたいな見出しですが、「国際シンボルマーク」が定められ、それに似通った「障害者マーク」が巷で使われているのは、そういうことのはずです

しかし、混みあった高速のSAで障害者用駐車場にベンツが我が物顔で停めてあったり、一人でスタスタ歩いて戻った人がそのまま障害者用駐車場から車を出していったりするのを見たのは私だけじゃありませんよね

SAの障害者用駐車場は、混んでいないときも見るたびに外車が停めてあるような気がするのですが、大きい車用だと思っているわけはないです

近所のスーパーマーケットの障害者用駐車場には「障害者マーク」のついた車が停まっていることがありますが、両手に買い物袋を提げて戻ってくる人はどう見ても私より健康そうだったりします

知り合いの女性は、確かに障害のあるお子さんをお持ちで、普段はヘルパーさんに面倒を見てもらっていますが、自分が乗る車(このお宅には外車も入れて全部で5台の車がある)にも「障害者マーク」を貼っており、スーパーマーケットでも平気で障害者用駐車場に停めます

ベンツに障害のある方が乗ったって別におかしくないですから、私のひがみ根性かもしれません

障害のある方が「障害者マーク」を付けずに障害者用駐車場にベンツを停めても、それは当然のことですからね

でも、健常者が、障害者を乗せてもいないときに障害者用駐車場に車を停めるのは、たとえ「障害者マーク」を着けていたとしても、ダメです。

障害にもいろいろあるので、車の乗降や歩行に支障がなければ、障害者でも遠慮してほしいです

あなたの車がそこを占領しているために、障害のある方が遠くに車を停めなくてはならないんですよ

ドアが十分に開けられないと、乗降が不可能な人もいるんです

その施設内で障害者を見かけたことはありませんか?

実際に利用しているんですよ

 

ですから私は、障害者用駐車場を自分専用だと思っている人や「障害者マーク」を免罪符のように使う人を、どうにか減らしたいと考えているのです

これを読んでくださる方がいて、ご賛同いただけたら嬉しいです